米子観光大使!!

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「1年ぶりです~(笑顔)」と、被っていらっしゃる帽子を右手で少し持ち上げる仕草で
再会の会釈をしながら入っていらっしゃったのは、瀬尾幹夫さんでした☆!

瀬尾氏は米子出身で横浜在住
名刺には「米子市観光協会 首都圏観光大使」とあります!!

はじめて「珈琲屋吹野」へ訪れて下さったのは二年くらい前でしょうか?!

その名刺は、昨年も戴いたのですが、縦仕様の上半分には
皆生海岸から大山を望む写真が添えられているのですが、今年はその裏に
「阪神ファンに捧ぐ」という見出しで、こんな文章が書かれていました。

米子地方は阪神ファンの多い土地柄として知られる。
1番センター呉、2番レフト金田、3番ライト別当、4番サード藤村、5番キャッチャー土井垣、
6番セカンド本堂、7番ファースト安居、8番ピッチャー若林、他打撃巧者多し、
ラストバッター、ショート長谷川。
あの懐かしい1949年当時ラジオから聞えてきた阪神ダイナマイト打線のオーダーだ。
球団最強か。
同年戦後初来日の米3Aサンフランシスコ・シールズに全日本など連戦連敗。
その中にあってよく打ったのが土井垣だった。折から地方博ブームで50年米子博覧会。
一際目立つは、ミットを構える大きな土井垣像。
土井垣武 旧制米子中学校(現・米子東高等学校)37期。長谷川善三も同38期。
米子東高校に入学し、何が嬉しかったかって土井垣の後輩になったことだった。
学校には土井垣先輩の生家の前を通った。
54年に卒業し半世紀余が経ち遠い昔のことになった。
が、阪神ダイナマイト打線は今でも諳んじている。  少年の夢消えず・・・

私は残念ながら、唯一わかるのが土井垣さん!
後の方はさっぱりわかりません(笑い)
それを今でも諳んじていらっしゃる瀬尾氏がどれ程の「野球少年」であったかが窺えますね☆

そして、ビックリしたのが「米子博覧会」という情報です!!
昭和25年に現在の「湊山公園」で、盛大に行われたそうです☆

帰宅後母に「湊山公園で、米子博覧会があったって憶えてる?!」と訊いてみました。
すると、「憶えてるよ~♪ お父さんと結婚した年だった~♪♪」と懐かしそうに言いました。
挙句、60年前にタイムスリップしてしまった母は
「その頃私に想いを寄せている人がいてね~♪ 一緒に米子博へ行きませんか~って
誘いに来られ、『私結婚したから!!』ってお断りしたのよ」と
遥か昔の、若かりし青春の自慢話まで聞かせてくれました☆♪

話は横道に反れましたが、こうして瀬尾氏は毎年「観光大使」としてのお仕事を果たさんと
横浜から米子へと足を運ばれています。
高校時代の同期との再会も愉しみの一つになっていらっしゃるとのこと☆
76歳となられた現在も、拓殖大学の教授としてご活躍ですが、
少し体調を崩され、そろそろ引退をとお考えだそうです。が・・・
私個人的には、これからも年に一度、米子へ帰って来て戴き、
愉しいお話を聴かせて戴きたいと心から願っています。
健康管理のため、プールへ通っていらっしゃるというお話もして下さいました。
これからもどうぞお元気で、米子の観光大使としてもご活躍戴きたいものです☆♪
また、来年もお会い出来ることを祈りつつ、出会いに感謝・・・