偲ぶ

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いつかはこんな日がくる・・・
それは頭の片隅にずっとあったはず・・・
でも、それが「今」だとは・・・

8月1日見舞った東京の珈琲の師が
旅立ったという報を受け取ったのは
ブログ「夏休み」を載せてから僅か4時間後でした。

10年振りの再会を果たしたブログは、もっと愉しく
感激的に綴りたかった。

なのに4日夜、救急車にて緊急入院された・・・
という知らせを受け愉しかった再会を書けなくなりました。

3日の夜も4日の朝も電話で話していました。
俄には信じられない緊急入院という現実でしたが、
とにかく亦元気になって退院されることを祈るように
再会を喜び合ったことだけはブログに載せました。


まったく信じられない!!
今でもそうです。
今日にも亦いつものように珈琲送ってくれという電話が
掛かってくるような気がしてなりません。
しかしあれから3週間が過ぎましたが、電話はありません。

8月1日、あんなに嬉しそうな笑顔で迎えてくれた人が・・・
すっかり痩せて手術の傷跡も痛々しく闘病の辛さを
ひしひしと感じはしましたが、あと3年は生きる!と
宣言して笑っていた人が・・・

漠然と「喫茶店」をしたいと思い上京を決意したのが
昭和54年の春でした。

下北沢の「壇」というお店で初めてマスターにお会いした日を
まるで昨日の事のようにはっきり憶えています。
いずれ田舎に帰って喫茶店をやりたいという全く未経験の小娘を
快く引き受けて下さったマスターでしたが、その初対面の日
緊張しながら「色々ご迷惑をお掛けするかもしれませんが
とうぞ宜しくお願いします」と硬直しながら頭を下げる私に
ニコニコ笑いながら「いや、迷惑かけられたら困ります
迷惑かけないようにして下さい ハハハ」と・・・

それでなくても緊張しているというのに更に脅かすひと言
だったから、はっきり憶えている。

そんなことを云ってビビらせたマスターでしたが、
実は優しい「師匠」でした。

マスターといる時はお客様とのやり取りが面白く楽しかった。
いつになっらマスターのように美味しい珈琲が
淹れられるようになるのかと気が遠くなるような日もありました。

修行期間は1年・・・という予定が店側の都合で2年に伸びたことも
私にとっては嬉しい出来事でした。
もう少しこのままで居たいという気持ちになっていたからです。

マスターやスタッフの方々、お客様とも親しくなれて
皆さんに優しくして戴いて当初の米子へ帰るという目標も
頭の中から消えて、ずっとこのままここのスタッフでいたい・・・
そんなことさえ思い始めていた居心地が良い珈琲屋でした。

でもそこまでの状況に至るまでには色々な事がありました。
ある日、小さな事で落ち込んでいる私を、新宿の高層ビルの
最上階レストランへ連れて行き、その窓から下を見てみろと云われ
泣きながら下を見下ろすと、人も車もミニチュアのように
小さく小さく見えました。
「みんなちっちゃいやろ?!今ワタシが悩んでる事は
 あれと同じくらいちっちゃい事なんやで~(笑)」
と慰めるでもなく何気なく諭してくれたマスターでした。
勉強になるからと都内の有名な珈琲屋さんにも
あちこち連れて行って貰いました。
喫茶店だけでなく和菓子屋さんやケーキ屋さんなどの
ディスプレイの仕方も参考になるから何でもよく見ておけ・・・
とも教えられました。

珈琲を淹れているとお客様に「マスターの淹れ方に似てきたね!!」
と言われるようになったのはいつ頃だったか・・・
心の中でこっそりガッツポーズを決めたりした。

その出逢いから33年が過ぎました。
が、考えてみれば一緒に過ごしたのは東京での2年間だけです。
マスターは私が米子へ帰ってから益々精力的に活躍され、
珈琲屋だけに留まらず、新宿にステーキ屋「玄庵」をオープン
更に山梨県の勝沼に「風」というワインレストランまでと
次々に夢を実現して、倒れるまで働き続けでした。

「玄庵」も「風」もどちらも素敵なマスターらしいお店でした。
残りの31年間は私が上京して、そのお店に連れて行って戴いたり
マスターが米子へ珈琲屋吹野の様子を観に来て下さったり
時々電話でお話するくらいでした。

病に倒れるまではすべて順調だったのではないでしょうか?!
17年前マスターを襲った「悪性リンパ腫」という病名は
私にとっては初めて聞く病いでした。
そこから始まった闘病生活・・・
大好きな仕事も出来なくなり、どんなに辛かったろう・・・
それからは病床で書き始めた水彩画や、時々出掛けて撮った
写真や便りが届くようになり、元気な頃より頻繁に交流が
始まったのは皮肉なものですね(笑)

今、こうして米子に「珈琲屋吹野」があるのは
この人との出逢いがあったから、と言っても過言ではありません。
ずっと気付かずにいましたが、遠くからずっとずっとこの人が
見守っていてくれたから私は頑張って来られたのです・・・

この頃届く便りの書き出しは「名人さま」でした。
珈琲の腕前、僕を越えたと思ってるやろ~?!とからかい
東京のお寿司屋さんでは「彼女は鳥取の米子で30年も珈琲屋を
やってるんや!凄いやろ~!!」と自慢してくれたあの声が
今も耳元に聞こえる・・・

8月1日も、私には辛そうな顔はひとつも見せず、
ずっと笑っていて、本当にあと3年は大丈夫を装い
私に元気な自分を焼きつけさせ、さよならも云わず
亦逢えると思わせておいて、忽然といなくなってしまわれた・・・

涙がとまりません
でも、四十九日までは泣いていいよ と皆に云われて泣いています。

33年間の「想い出」を胸に頑張って珈琲屋吹野を続けて行きます。
いつかまた「逢える日」まで

2012年8月8日マスター永眠